シトラス (いちの)
「先生って、恋人とかいないの?」
放課後、理科室の掃除をさせていたときだった。教え子の一人が私に尋ねてきた。
「いないよ」
素直に答えると、生徒たちはニヤニヤと笑いながら、私のそばに集まってきた。
「へぇ、意外。いるかと思ってたのに」
「さびしー」
「うるさい。いいから、さっさと掃除を終わらせなさい」
まとわりつく黒い制服を払いのけて、教卓の上を整理する。今日の実験は化学薬品を使ったために、試験管が何本か洗われずに置きっぱなしだった。
「結城先生、もう終わったよ」
「よろしい。ご苦労様。明日も頼むよ」
「先生、さようなら」
さようなら、さようなら。鞄を抱えた生徒たちは、足早に実験室を出て行く。試験管の洗浄をしようと顔を上げたら、まだ一人生徒が残っていた。
橘優一。先ほどの生徒たちと同じクラスの委員長。
「どうした、橘。帰らないのか」
鞄を抱えたまま、ぼうっと立っているのでどうしたのかと声をかけた。橘は声をかけられて、何度かパチパチと瞬きすると、目を伏せた。
「あの……」
鞄を抱え直して、言いにくそうに口をつぐむ。
橘優一は背は高くないものの、整った顔立ちをしている。最初見たとき、クラスに女生徒が紛れ込んでいるのかと思った。我が学園は、男子校だというのに。橘のクラスの副担任となり、委員長である橘とは他の生徒よりも接点が多い。学級会で生徒たちをまとめる姿は凛として、同級生からの信頼も厚い。そんな姿を知るからこそ、橘が言いにくそうにしている様子は、何か悩み事でもあるのかと勘ぐってしまう。
「なんだ」
「さっきの、恋人がいないって本当ですか」
思いがけない質問に不意打ちを食らいながらも、本当だと返す。
「本当だ。なんでそんなこと気にするんだ」
「いえ……」
思いめぐらせて、もしかしたらと思いついたのは、近くの女子校の存在だった。由緒正しいお嬢様学校の存在が、年頃の少年らを悩ませるのは常のことだった。同じ通学路を利用する彼らは、淡い期待と失望を抱えている。
この橘優一もまた、恋に悩む少年なのだろう。助言が欲しくて近くの大人を頼ろうとしたが、期待はずれといったところか。
助けになってやりたいが、相談されても何とも答えられないので、悩みは聞かないことにした。
「今日はご苦労様。暗くならないうちに帰りなさい」
「……はい」
小さく一礼すると、橘は実験室を出て行った。入れ違いに、国語教師の森岡が入ってくる。
「ちょっといいか」
森岡は、橘のクラスの担任だ。歳が近く、教師陣の中では特に親しい。
森岡が抱えているのは、進路希望の書類だった。分厚い紙の束は、教卓の上に並べられた。
「もう集めたんだ」
「まぁな。でも、何人か出してないやつがいて、困ってる」
「ふぅん」
森岡が差し出してきた名簿を眺める。名前の横に進路希望の書類を出した生徒には丸、出していなければ空白とチェックされていた。上から目を滑らせると、いくつかの空白が目立つ。意外なことに、橘の名前の横も空白だった。
「珍しい」
「ああ、橘か」
森岡が察して、書類を眺めながら頷く。
橘は優等生として教師の間では有名だった。成績は常に上位を保ち、教師に従順で扱いやすい生徒なのだ。
「忘れたの?」
「いや、これを集めたのは先週。あいつは忘れものをしたとしても、次の日には必ず提出する奴だ」
「じゃあ、何故」
「出したくないってことなんだろうなぁ……」
森岡は眉を八の字にして、首の後ろを掻く。
「他の奴らが出さない理由は、なんとなくわかるんだよ。成績が不安だとか、家庭の事情とかな。でも、橘だけがわからない」
「本人に訊いてみた?」
「何度か。でも、全部はぐらかされてさ。さっきもすれ違った時、声をかける暇なく走って逃げやがった」
改めて、橘優一の名前を眺める。横は空白。これが他の課題提出なら、あり得ないことだった。
「わかった。私からも訊いてみよう。すぐに、とはいかないかもしれないが」
「頼むぜ。橘の奴、もう目も合わせてくれなくてな。子供の反抗期みたいで寂しくてたまらん」
「はは、いつから親になったんだい」
「何言ってる。教師は生徒の親も同然だろ」
ふざけて笑いあうと、森岡は真新しい進路希望の書類を置いて出て行った。夕日が射しはじめた実験室で、私はどうしたものかと教卓に肘をついた。
「橘」
廊下で呼び止めると、橘は艶やかな黒髪を揺らして振り向いた。
「結城先生」
「いま、時間あるか」
橘はちらりと腕時計を確かめると、頷いた。
「はい。でも、お昼ご飯がまだなので……」
「じゃあ、一緒に食べよう。実験室に来なさい」
昼休み、教室を覗くと橘がちょうど廊下に出たところだった。橘は慌てて教室から弁当を持ってくると、先へ進む私の後ろに並んだ。
「先生、あの……」
「お前は察しがいいし、私が何で呼び出したのかわかると思う」
「…………」
普通教室の集中する一号館と違い、二号館は特別教室しか無いため人気は少ない。特にこれといった会話もせず、私と橘は実験室へ入る。
「適当に座って。私も弁当持ってくるから」
橘を残して、準備室へ入る。鞄から買い置きの弁当を取り出すついでに、紙コップを二つ用意してポットから紅茶を注いだ。紅茶と弁当を抱えて実験室に戻ると、橘は黒板に近い実験台で弁当を広げていた。私は紅茶を差し出すと、その向かいの椅子を引っ張りだして座る。橘は無言で紅茶を受け取った。
「森岡先生ですか」
私が言い出さないので、橘から切り出した。
「まあね」
近くの総菜屋で買った弁当の蓋を取る。橘は弁当のナプキンをほどいて、ゴムバンドで止められた弁当を開けようとしていた。
「進路希望の」
「そう」
「なんで結城先生が」
「お前が森岡先生を避けるからね」
橘は押し黙って、黙々と箸を進める。私も同じようにするが、橘が箸を進めるスピードは速かった。まるで苛立っているように。
しばらく二人で食べていると、五分後にはもう橘が食べ終わっていた。さっさと弁当の片付けをはじめる。
私は箸を置いて、紅茶に口を付ける。橘の紙コップは、すでに空になっていた。
「何を悩んでいるのかは知らないが、お前の将来に関わるんだ。遅くてもいいから、ちゃんと提出して欲しい」
橘が手を止めた。伏せていた顔を上げ、真っ直ぐこちらを見つめる。
「それは、副担任だからですか。森岡先生に頼まれたからですか」
黒目の大きい瞳。射抜くように強く見つめるその視線に、耐えねばならないと思った。そらしてはいけないと。
「どっちも。お前は大切な教え子だし、受け持ちのクラスの一員でもある。他の生徒よりも付き合いが多いから、心配なんだよ」
見つめていた瞳が瞬いて、また俯かれた。伏せられた睫毛が長く、印象的だ。
「……心配、してくれるんですか」
「当たり前だろう」
飲んでいた紅茶を降ろすと、橘がその手の上に自分の手を重ねた。掴むわけでもなく、ただ触れているという感覚。
「先生、放課後残ってもいい?」
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