この頑丈な黒い首輪を付けて早五年。イアンは本当の意味でこの守りが必要な瞬間はあの日までまったくないほど平和な客にしか当たってこなかった。
 イアンはこの街で上の下に位置する娼館の男娼だった。日に二人か三人、気安い客が入る及第点の存在だ。
 個室は貰えないが二人部屋で客を取るのは専用のそこそこ雰囲気のある風呂付きの別の部屋。イアンよりも位が低いと客室すらまともな部屋は与えて貰えない。さすがに風呂はあったが部屋も狭くゆっくりしようとは思えない。そういう客しか取れない部屋だ。
 イアンは本日二人目の客を見送り、先程まで致していた部屋に戻ってきた。換気のために窓を開けると窓から強い風が入ってきてイアンの艶やかな黒髪を巻き上げる。風に当てられて緑の目が少し痛んで数回瞬きをした。
 一つ息を吐くとベッドシーツを取り替える。もっと上の位の男娼ならこんなとこはしないが、イアンくらいの者であれば後片付けも自分の仕事だ。さすがに洗濯は別の者がまとめて行っているが。
 ある程度片付けが終わり、念の為にとイアンは備え付けの風呂に入る。事前事後に風呂に入るといっても客前だ、念入りに洗うことは出来ない。よって、片付けの合間にイアンはもう一度入ることにしている。
 一日に何度も風呂に入るせいでイアンの肌は乾燥気味だ。客を取る前と寝る前に保湿剤を塗らねばヒビが入ってしまう。そうなると客に触り心地が不満だと言われるから面倒だ。
 風呂から出て念入りに保湿剤を塗ってると客が入った合図がなった。時間も遅くこれが最後だろうと薄いガウンを羽織り客が来るのに備えた。
 何故か足音が近くなるにつれ、刺激的でそれでいてほっとする香りがイアンの鼻腔をくすぐった。心がざわつきどこかそわそわと落ち着きがなくなる。突然目が熱く泣き出したい気持ちになり、そんな自分に戸惑いを覚えた。
 そして、扉が開きそこに立つ者を見た瞬間堪えていた涙が溢れ出した。相手は当然驚き、そしてアメジストのようにきらめく瞳にどこか悲しみが見えたあとぐっと眉間に皺が寄せられた。
「臭い……! 有り得ない! こんなのが私のオメガだって!?」
 イアンは彼の言葉に彼かアルファなんだと理解した。そしてその絵画から飛び出てきたような、その輝きに目が潰れてしまうのではと思うほど整った顔と手足が長く均整のとれた体躯に納得する。少し長めの銀髪から見える紫の瞳は吸い込まれるようだ。幾人かアルファの客を見てきたが彼ほどの人は今まで見たことがなかった。
 そんな彼が怒りの形相でイアンの手を取り先程まで居た風呂場に引き入れた。ガウンなどあっという間に剥ぎ取られ頭から湯をかけられるとガシガシとイアンの体を洗い出す。
「お、お客様? 私が洗いますから、お客様も脱いでください」
「うるさい! こんなに臭いのを耐えろという方が無理だ! よってまずは君が洗われるべきだ!」
 自分のにおいだから分からなかったのか? しかし一般人と比べて必要以上に体を洗っているし保湿剤も悪い匂いじゃない。同室からも客からも体臭で苦情が来た覚えは無い。
 しかし、何度も洗い流され肌が赤くなってもなお彼が満足するに至らなかった。
「あーもう仕方がない。今日のところはこれで我慢する……けど、本当になんでこんな所で!」
 やっと解放されたイアンは洗われていただけだがヘトヘトになってしまっていた。それでも客の体を洗うのは仕事の一つだったため彼の脱衣を手伝おうとする。
「あの、お手伝いしますので……」
「必要ない。どこにオメガに手伝わせるアルファがいるって言うんだ。そんなおちぶれたヤツだって言いたいわけ?」
「いえ、あの、お客様ですので……」
「は〜〜〜なるほどね? 君と私は男娼と客だもんね? 本当に最悪!! 私が洗ったか確認しないといけないならそこで見ていて! 君に手伝ってもらう必要はない!」
 イアンは湯船に放り投げられヒリヒリと擦り切れた皮膚が染みる中、彼が体を洗うのを見ていることしか出来なかった。客を取りだして三年、変わった客は見てきたが彼ほど不思議な客は初めてだった。
 彼がしっかりと洗いきったことを確認し、湯船に入ろうとしないところを見るとイアンはタオルを出そうと立ち上がった。しかしまたしても制止され、奪われたタオルで反対に拭かれてしまう。先にベッドに行くよう促され、大人しく従うほかなかった。
 後ろ向きにベッドに倒れ込むとイアンは腕で目を覆う。まったくもって調子が狂い普段通りの接客ができない。何一つ満足にさせて貰えず、これで評価が落ちるのは納得できない。客数も客単価も程々だが、満足度が高いのがイアンの接客だ。彼がどういう性格かは分からないがクチコミはバカにできないため満足して帰ってもらいたい。
 足音と気配でイアンはむくりと起き上がる。短い銀の髪はまだ濡れていて水がポタポタと落ちている。イアンは駆け寄り彼が肩にかけていたタオルで拭こうと手を伸ばすが払われて横抱きにされてしまう。
「うわっ」
「暴れないでよ? 髪は拭くから大人しくベッドで待ってて」
 数歩だが成人男性を抱いているとはとても思えない軽やかな足取りでイアンをベッドまで運び置くと、手を軽く振った。たったそれだけで髪が乾いてしまう。ついでとばかりにまだ少し湿っていたイアンの髪も乾いていた。
「……お客様は魔法が使えるのですね」
「まぁね。私はフェデリクス。お客様って呼ばないで」
「……はい、フェデリクス様。本日お相手いただくイアンといいます」
「うん、下で聞いたから知ってる。今日私は何番目?」
 彼、フェデリクスがイアンの名前を知っていたのは予想の範囲内だったがその後の質問は予想外だった。誤魔化すのは簡単だが果たして彼に通用するのかは定かではない。
「……三人目のお客様です」
 イアンは正直に答えた。誤魔化してもしつこく聞いてきそうな予感がしたからだ。それなら早くこの問答が終わるほうがいい。
「そりゃあれだけの臭いになるわけだ。本当に最悪!! ……毎日それくらい客が入るの?」
「まぁ……そうですね……」
 頭を抱えるフェデリクスに抱えたいのはこっちだとイアンは言いたくなる。
「あーもう! 過去はしょうがない。むかつくけど変えられないものをどうこう言ってる時間の方が無駄だ。こんな手垢まみれのオメガ……」
 フェデリクスの言いようにさすがのイアンもムッとした。娼館である以上初物はほとんどいない。それに文句を言うなら来るなと言いたい。
「有難いことに三年はお客様方に可愛がっていただきましたので、真っさらがお好みでしたら他を当たってください。まだいたしていませんからお代は結構です。お引き取りください」
 少しくらい文句を言われるのは慣れていた。けれど、彼に言われるのだけは何故か許せなかった。イアンはチクチク痛む胸を隠しながら作った笑顔で退室を促す。
「別に初めてじゃないからって君の価値が損なうわけじゃない! こだわってる訳じゃなくて……」
「まだ売り出し前の者もおりますから、デビュー前にご予約いただけるよう口利きさせていただきますよ」
「君じゃないなら意味が無い! 君が何人と関係を持とうが関係ない! 私は、君に会いに来たんだ」


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