あの日ほど慧春(ケイシュン)が後悔した日はなかった。言葉の意味を理解した時には遅すぎた。
 三年前、慧春は難関試験に好成績で合格し、内政に関わることとなった。真新し官服に身を包み腰まであった綺麗な白髪を結び官帽に詰めて入省すると祭祀や教育の事務を司る礼部の末端を任された。末端とはいえ、ある程度の出世が見込まれており、雑務をしつつも管理側の仕事も任されている。
 仕事をしては寝に帰るような多忙な日々を過ごしていたある日、一人の使用人が礼部を訊ねてきた。官吏以外がこの部屋を訪れることは珍しく、殆どの者が入口に目をやった。慧春も一目見たが、皇族との繋がりなどなく、関係ないだろうとすぐに読んでいた資料に視線を戻した。
「この中にウサギは居りますか?」
 ウサギ――この世界の人間はみな獣人族だ。獣と同じような耳と尻尾を持っている。元となった獣と同様の身体能力をそれぞれが有していた。高位になるにつれ大型の肉食動物を祖先とするものが多く、平民のほとんどが草食動物か小型の肉食動物を起源としている。
 互いに匂いで肉食か草食かを区別できるが、その種類までは表面上知ることはできない。日常的に耳や尻尾を出している者は理性的ではないと蔑まれているからだ。 それは耳や尻尾を消していても感情が多く揺れた時には自制ができずに出現してしまう為だ。
 慧春は兎を起源とする種族だった。呼ばれる準備ができておらず、反応が一瞬遅れた。
「……はい。私ですが」
 立ち上がった慧春に視線が集中する。その目はどれも驚愕の色を孕んでいた。その事に慧春も驚き、ビクッと肩を震わせる。
「それはよかった。それではこちらに。すぐにご準備を」
「はあ……?」
 理解できないが仕事の手を止めなければならないことだけは慧春にも分かった。手早く机を片付けて、同僚に状況を報告する。
「何やら席を立たないといけないようですので、もし戻るのが遅ければこちらの資料作成をお願いできますか? 明日が期限で、ここまでは終わっています。こちらは郎中に確認いただきたいものです」
「ハク家はそんなに……家計が苦しいのか?」
「いえ、そのような話は聞いていませんが……?」
「あーでは評価が良くなると聞いて騙されたクチか。男だからと高を括っていたのだろう。災難だったな」
 慧春は言葉を理解できぬまま、使用人の居る出入口に向かった。
「これから秀慶宮に向かいます。そこで医官の診断を受けていただき、問題なければ準備に入ります。一時辰しかありませんので、少々急ぎます」
 軽い足音で優雅に駆ける使用人になんとか食らい付き、できるだけ音を立てずに慧春も足早に動いた。
 秀慶宮といえば、第二公子である秀英(シゥイン)が皇宮で暮らす場所だ。千年に一人と言われる秀才で、父親である前皇帝から賜った広大な領土運営だけでなく、本国の宰相も担っている。異母兄である現皇帝とは仲が良く、皇宮に秀英の宮があるのがその表れだ。
 彼の領土内の本宅とは別に首都に離宮があり宰相となった際にはそこに住む予定だったと慧春も噂を聞いたことがあった。継承権があり、いざという時のために教育は受けつつも初めから臣下として育てられた。
 慧春は秀英よりも三つ年嵩だったが、秀英の優秀さから最高学府での一年間を同じ教室で過ごした。同級生であった期間は唯一、慧春が主席を取れない時期だった。もちろん、秀英が主席だったからだ。彼は慧春よりも一年遅く入学したというのに半年早く卒業していった。その時の彼はまだ慧春が入学した年齢だった。才能の差を見せ付けられたが、差が大きすぎると何も感じないのだと慧春は学んだ。


 秀慶宮に着くと医官に触診といくつかの質問に答え、問題ないと判断された。
「では、三回の浣腸後体を清めて準備をしてください。女官の指示に従うように」
「……浣腸、ですか?」
「公子のためです。当然です。さあ、時間がありませんよ」
 初めての浣腸に四苦八苦したがどうにか終えたと脂汗を拭いていた慧春に、更なる追い打ちをかけたのは女官だった。あろうことか、吐き出した物を確認しにきたのだ。
「追加する必要はなさそうですね。ではこちらに」
 衝撃を受け止めきれぬまま湯殿に連れて行かれた。あれよあれよと服を脱がされ、隅々まで丸洗いされる。
「ひぃっなにを……!」
「暴れないでくださいませ。貴方様のためでございます」
 最終的に女官の指が慧春の後孔に入ってきた。驚きと不快感と痛みに意識が遠のきそうになる、泣きそうになる瞳を強く瞑り、早く時が過ぎてくれと天に祈った。
 張り型を咥えさせられえながら湯殿から出ると、台に寝転がされたっぷりの香油で体を磨かれる。あまり嗅いだことのない匂いだったが、気にする余裕がないほど、心が擦り切れていた。
 訳の分からぬまま時間だけが過ぎていく。だが、勉強ばかりしてきた慧春でもこの後何が起こるのかだけは分かった。これから秀英の夜伽の相手をするのだ。今まで誰とも肌を合わせたことのない慧春が。
 スッと胃の辺りが冷えていく感覚がした。
 ウサギとは種族を表すこと言葉ではなく、繁殖力の高さと紐付けた隠語なのだろうと慧春は結論付けた。入省の契約時に何故言葉のい意味を教えてくれなかったのか、職務怠慢ではないかと担当者への恨みばかりが生まれてくる。
 しかし、ここまできては腹を括るしかなく、女中に説明したところで解放してくれるとは思えない。
 準備が終わったのか透けるほど薄い衣を羽織らされ、寝台のある部屋へと連れて行かれた。歩くたびに張り型が存在を主張し、痛みはないが不快感に襲われる。どこかに引っ掛かっているのか動いても抜けてくれない。
 女中たちは慧春を部屋に届けると去ってしまい、手持ち無沙汰になった。ふと指先を見れば絶対に公子を傷付けないようにと再三言われやすりで丸く短くされた爪が目に入る。腕もしっとりと柔らかく吸い付くような肌に変わった。解かれた髪も艶やかで梳いても引っ掛からずに指の間を擦り抜ける。短い時間でここまで磨かれるのかと感心する一方、こんなに気を使わなければならない女性たちに敬意の念を抱いた。
 一刻を少し過ぎた頃、外が騒がしくなってきた。ついにかと慧春の心臓は悲鳴を上げる。
「兄上は本当にウサギを用意したのか?」
「はい、すでに秀英様のお部屋に待機させております」
「まったく……私の気持ちなど兄上には関係ないのだな。事実さえあればいいのだろう? すぐ終わらせて戻るからそなたたちは仕事を進めておいてくれ」
 聞こえてくる会話に互いに望まぬ時間なのだと知る。戸惑いつつも膝をつき頭を下げて秀英を待つ。
 戸が開き、足音が近付いてくる。慧春は腹を括ったつもりでいたが、この場から逃げ出したくなった。少なからず見知った仲であり、どんな顔で対面すればよいか分からない。
「そなた、初めてだろうがこちらもあまり時間がない。なるべく痛みがないよう心掛けるが、確約はできない。後で医官を呼ぶので見てもらうといい」
 後孔を女中の指や張り型で押し開かれたときあれ程痛みがあったのだ。いっそう太く長いであろう男根を入れられて無事であるわけがない。慧春は気を失ってでも耐えねばならぬと覚悟をしていた。
 足音が止み、慧春の視界に秀英の爪先が見える。飛び出そうになる心臓を唾液と共に奥へと押し込んだ。
「お互い喜ばしくはないだろうが、始めようか。そなた、名は何という?」

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