肩に掛かる艶やかな黒髪をなびかせ、ギスランはノックもなしに食堂へと入ってきた。堂々とした足取りで陛下の前へと歩いてくる。
「一体何分待たせる気ですか? とっくに執務時間は過ぎていますよ」
「日々馬車馬のように働いているのだ。少しぐらいは遅れても良いだろう。それにまだ、十分も過ぎていないじゃないか」
「皇帝陛下というものは一年を通して皇帝陛下でなければなりません。一秒たりとて個人ではないのです」
 ユノはギスランの言葉を聞いてハッとした。陛下の貴重な時間を奪ってしまったのだ。こんなにも陛下に寄り添ってもらって、心がドキドキと高鳴り浮ついてしまっていた。
「ギスラン様、すみません。陛下、直ぐにでも出発を……」
「ユノさんは小指の爪ほども悪くはありませんよ。緩みきった顔の陛下に非があります」
「ユノが気負わなくて良いというのは同意するが、私とて休みは必要だ。私が死んでも良いというのか」
 誰しも働き詰めでは心も体もすり減ってしまう。ユノとの時間が休みになっているかは定かではないが、仕事以外の時間も大切だ。
 ユノが二人の言い争いをあたふたと見つめている一方で、バシュレは何食わぬ顔で陛下の出発の準備を進めていた。
「恐れながら陛下は十日寝ずとも働けます故、日々休息をとっている中でさらなる休息は不要かと思われます」
「体は良くともユノと触れずしては精神が崩壊する。我々はそういう生き物だ」
 陛下はさも当然のように語り、ユノをさらに狼狽えさせる。疑問を視線で陛下にぶつければ、優しく微笑まれるだけだった。
「色呆けジジイは燃費が悪くてかないませんね」
「私はまだまだ若輩だ。ユノだってそう思うだろう?」
「えっあっ、はい。あの、陛下はお若いと思います」
 実年齢は知らないが、陛下の見た目はユノの母と同じか少し下回るかどうかというふうに見受けられた。ただ、ユノ自身、相手の年齢がいくつか判断できるほど興味を持って誰かに接したことがない。
「ユノさんは陛下の見た目に騙されていますよ。お労しい」
「年など瑣末な問題だろう」
「それは陛下だからですよ。気にされる方は気にします。ユノさんだって、老人相手は嫌でしょう?」
 ユノの理解の及ばないところで話が進められ、パチパチと瞬きをすることしかできない。準備の終わったバシュレも口を出す気配はなく、助けを求めても無駄なようだ。
「えっと、その、キダツ様は母よりもずっと年上でしたので……。そもそもキダツ様相手に何かを気にするなどおこがましいので……」
「またキダツ、だな。君は自分の目で何かを見たりはしないのかい?」
「第一にキダツ様ですから。それが生まれた時から私にとっては当然のことでした」
 キダツへの思いを否定されるのはユノにとって生き方そのものを否定されるのと同じだ。陛下が何故かキダツを嫌っているようで、それがユノを悲しませる。
「ユノさんは聖職者としてご立派な方ですね。陛下はいちいち突っかかりすぎです。大人な対応をしてください。いったい幾つだと思っているんですか」
「しかしだな……ユノが私以外の男の話をするのは気分がいいものではない。それをユノに当たるのは可哀想なことをしている自覚はある……」
「自覚があってそうされているのでしたら尚のことタチが悪いです。嫌われても知りませんよ?」
 ユノが陛下を嫌いになることはない。何故なら、ユノは人や物に対して苦手だと思うことはあっても何かを嫌ったことがないからだ。嫌いということが分からないユノには絶対に誰かを嫌うことは出来ない。
「ユノ、すまない。今後はきちんと、君を不快にさせることのないよう気をつける」
「いえ、陛下が私などのこと気になさらないでください」
「などではない。君だからこそ大切にしたいと思うんだ」
 ユノにはなぜ陛下がそう思ってくれるのかは見当もつかなかった。けれど、大切にしてくれようとする気持は嬉しいし、それに甘えないようにきちんとしなければとも思う。薄らと考えつくのは、ユノが半人前だから気を使わせてしまうのだ。
 陛下にもバシュレにも出会って丸一日と経っていないがでたくさん気を使わせてしまった。初めてだからと胡座をかかずに精進するしかない。
「そう言ってくださるのはとても嬉しいです。陛下に長くそう思っていただけるよう、頑張ります」
「うん? ユノはそこに居てくれさえすればそれ以上のことないが、頑張るというのであれば応援しよう。手が必要な時はいつでも頼ってくれ」
「ありがとうございます。その時はよろしくお願いしますね」
 勿論ユノは陛下の手を煩わせることがないように気を付けるつもりだ。だが、優しい陛下はユノがいくら断ったところでそれを受け入れてはくれないだろう。少し学んだユノはやんわりと受け流すことにした。
 嬉しそうに微笑む陛下と、ユノの言葉の裏に気づいているのか、哀れんだ様子で陛下を見つめるギスランが居た。
 ユノでも陛下とギスランの表情が分かるのだから、一層、陛下に申し訳なくなる。何か時間を取らずかつ簡単に済む願い事を考えるべきかと逡巡する。
「ああ、もうこんな時間ですよ。陛下を迎えに来たつもりが話し込んでしまいましたね。ほら、急いで執務室に向かいますよ」
「ああ、すまない。ではな、ユノ。バシュレ、行ってくる」
 バシュレが軽く陛下を引き留め上着を着せ、頭を垂れる。ユノもそれに続いてぺこりと頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
 嵐のような朝支度が終わり、ユノは緊張から少し解放され、ふうと息をつく。陛下がどんなに気さくに話してくれたとしても、緊張しないはずがなかった。
「ではユノさん、こちらを片付けて城の見回りをしましょうか」
「はい、バシュレ様」
 残っていたカップを荷台に乗せ、長テーブルを片付けると洗い場へ持って行き洗い物を任せた。
「先日頼まれていた油と桶ですが、早ければ今日の午後にも届くそうですよ」
「ありがとうございます。いつも早くて助かります」
「他にも足りない物や必要な物があればおっしゃってくださいね」
 共に来ていたバシュレは調理場と洗い場を管理している料理長に声をかけ、不足がないことを確認する。これも執事の仕事だそうだ。バシュレはそのまま昼食の献立の話を続けた。
「本日の昼食と夕食ですが、通常の四分の一ほどの量でラウディス様と同様のメニューの準備もお願いいたします。気持ち薄味にすることは可能ですか?」
「ええ、問題ありません」
「ではそのようにお願いいたします。続けて夕食ですが、少々鉄分が平均値を下回っていましたので、摂取できるような物を一品は準備願います」
 バシュレが料理長に小皿の注文をしているのを聞いていたが、ユノには何のことだかさっぱり分からなかった。おそらくユノの分であろう料理を頼んだことくらいしか理解できなかった。
「承知しました。では肝臓を使った料理を何か考えておきます」
「よろしくお願いいたします。では、私たちはここで失礼します。何かありましたらご連絡お願いいたします」
 ユノは一礼してからバシュレの後を追い、部屋を出た。
「これから庭へ向かいます。この城では毎日少しずつ庭師が整えてくださっているから庭が綺麗に保たれているんですよ」
「そうなのですね。確かにお部屋から見えるお庭はとても綺麗でした!」
「ぜひそれを本人にも伝えてあげてください」
 庭師と話しに行った後は掃除を担当している女中に会いに行きそれぞれ不便はないか、次はどこそこの場所を見てもらうよう指示を出していった。
 何カ所か回ったところで昼食の時間となり、また食堂へと戻った。午後は美術品を確認し、部屋の模様替えを計画するそうだ。
「ああユノ、もう何年も会っていない気がするが、問題はなかったか?」

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ちょっとすすんだような??
相変わらず陛下からのアピがつよいです。