ユノが与えられた部屋に戻ってきたのは八時を回っていた。村にいたころよりも夜更かしができるようになったとはいえ、すでに意識が朦朧としている。身体は動き回ったことで疲れきり、頭は膨大な、新しい知識を取り入れたことでぎゅうぎゅう詰めだ。
なんとかふらふらとした足取りで湯あみを済ませると少し目が冴えてくる。
「今日はさすがに疲れた……。明日は四時前には起きないとだから、あんまり寝られないかなぁ」
バシュレに貰った目覚まし時計のネジをくるくると回し、起きたい時間に針を合わせる。
これで時間になると音が鳴り、起こしてくれるというのだから驚きだ。帝都には便利なものがたくさんある。それもこれも魔力と、今、国を挙げて力を入れている科学というもののおかげだと教わった。今はまだ魔力に頼ったものが多いが、ゆくゆくは科学だけでも独り立ちできるような世界にしていくのだと言う。精霊使いが減っている中で、それだけに依存しては国が弱くなってしまうらしい。ユノには難しい話だったが、とても大切な取り組みなのだろうということだけは伝わってきた。
そんな素晴らしいもののおかげでユノは気を緩めて眠りにつくことができる。ふかふかとした寝台はまるで誰かに包み込まれているような錯覚に陥る。一瞬で深い闇の底へと誘われた。
ジリリリリとけたたましい音が鳴る。ユノは寝台から飛び起きあたりを見渡した。枕の側には高速で左右の鐘を打ち付ける時計があった。片耳を塞ぎながら時計を裏返し、ねじを「止」
と書かれた方にずらす。すると、頭を揺らすような音は止み、静けさが戻ってきた。
寝台から降りるとユノは少し歩いて帳と窓を開け放った。まだ薄暗く夜といっても頷けるような空だ。ひんやりと冷たい空気が頭をすっきりさせる。
ユノは洗面所へ行き、流しで水を出し顔と手を清めた。寝室へと戻り、ダリオルに買ってもらった軽い素材の白い上着と紺のズボンに着替える。
部屋の中で一番ダツル村に近い場所――開放した窓の側に膝をつき手を組んでキダツへ祈りを捧げる。今日まで過ごせたことへの感謝と今日一日健やかに送れることを願い、愛しい気持ちを言葉にした。
キダツは距離があろうともきっとユノのことを気にかけてくれている。だからこそ、それ以上にユノはキダツのことを思う。毎日が楽しく平和に暮らせているのはキダツの恩恵を受けているからだ。
ユノは立ち上がり、窓の側に置かれた小さな机の上から果物を手に取り口に頬張った。昨日厨房からもらってきた、黄緑色く丸いシャキシャキとした食感のライカという果物だ。少しの酸味と爽やかな甘みがユノの舌を喜ばせる。ユノの手のひらほどのライカをまるまる一つ食べると洗面所へ行き、蛇口からガラスのコップに水を注ぎ飲み干した。
「ふー。もう行った方がいいよね……」
洗面台に置かれた小さな時計は四時十五分になろうかとしていた。
ユノはズボンのポケットに手記用にとバシュレから貰った手帳と鉛筆を忍ばせて部屋を出る。
聞いていた持ち場はユノの部屋からほど近い場所にある小部屋だった。扉を開けると既にバシュレが綿のふわふわとした手ぬぐいを用意していた。
「おはようございます、バシュレ様」
「おはようございます、ユノさん。あまりの寝られなかったのではないですか?」
バシュレに心配そうな顔させてしまい、申し訳なくなる。ユノよりも早く仕事に就き遅く帰るバシュレはきっちりとしており、ユノも気を引き締めねばと思った。
「そんなことは……目覚まし時計のおかげでぐっすりと眠れました」
「早速お役にたったようですね。ですが、あまり無理はなさらないでくださいね」
「はい! 大丈夫です」
ユノはバシュレに教わりながら顔を洗うための底が深く口の広いガラス製のボウル、口を濯ぐためのコップや水差しなどを用意して荷台に乗せていく。最後に口がすっきりとする葉茶を用意して準備は完了した。
「葉茶の加減はどうでしょうかね」
バシュレは盃を棚から取り出し、淹れたての葉茶を少量注いだ。すっと勢いよく啜ったかと思うと口の中で転がすような動きをする。少しして喉が動き嚥下したことが分かった。
「まだ薄いですが、ラウディス様のところにつく頃には頃合でしょう。ユノさんも飲んでみますか?」
「いいんですか?」
「ええ、少しなら構いませんよ」
ユノはバシュレが使ったものと同じく形の盃を受け取り、まだ熱いそれをひと口ふくんだ。口に入れた瞬間、スーッと冷たさにも似た爽やかな風味が広がる。お湯を飲んだはずが、息をするとひんやりと冷たい風を吸っているような感覚がした。
「なんだか、変な感じがします」
「変わったお茶でしょう? これには殺菌効果があるんですよ。軽い怪我でしたら、この茶葉を磨り潰して傷口に塗るのが帝都では一般的な治療法です」
「そんなこともできるんですか! すごいお茶なんですね」
言葉を発する事にスースーする口元に違和感を覚えながらも、それが面白く普段よりも多く息を吸ってしまう。ラナにも飲ませてあげたいと思ったところで仕事中だということを思い出した。
「……陛下のところに行きますよね」
「はい、それでは行きましょうか。ユノさんが楽しまれていたところをラウディス様にも見せて差し上げたかったですね」
「すみません……。不思議な感じがして楽しくなってしまいました……」
しゅんとしながら荷台を押して、陛下の部屋を目指した。
ユノの部屋よりも手前にあるのが陛下の部屋だ。ほとんど寝ることにしか使われない私室だが、今はその役目を十分に果たしている。廊下から扉を開け、さらにいくつかの戸をくぐるとようやく陛下の寝室にたどり着いた。
「おそらくまだ寝ていらっしゃるとは思いますので、戸はゆっくりと開けるようにしましょう」
扉についた丸い取っ手を回し、バシュレに教わった通りゆっくりと音が鳴らないように開く。
部屋の中はユノが借りているものよりもずっと広いが、物が少なく少し寂しい印象だった。中央壁沿いに大人四人がゆうに寝れそうな大きな寝台がある。近づけば真ん中はどうぞ使ってくれと言わんばかりに、ずいぶんと余白を作り、端に陛下が寝ていた。
一定の呼吸音が聞こえてきた。陛下は寝姿でさえ存在感がある。瞳を瞑ってなお美しい顔立ちはうっとりとユノの視線を掴んで離そうとしない。強い意志で一度目を瞑り、ユノはバシュレを見やった。
バシュレはゆっくりと頷き、ユノは意を決して麗人に声をかける。
「へいか、起きてください。目覚めの時間ですよ」
ユノは囁くように言葉をかけ、目覚めを促す。だが、陛下はぴくりともしなかった。まだ眠りの淵で自分の声が聞こえていないのだろうと、ユノはもう一度声をかける。
「陛下、起きてください。朝ですよ。すっきりとした葉茶を用意しました。ぜひ飲んでください」
少し声を大きくしたが陛下の反応はない。ユノは困ってバシュレに視線で助けを求めるが、困った様に微笑まれただけで助けてはくれないようだ。
「失礼します」
先に非礼を詫びて、寝台の側にしゃがみこみ、ユノはとんとんと軽く陛下の肩を叩いた。これが妹のラナであったなら、肩をグラグラと揺らして起こしただろう。さすがにそれを陛下にする気は起きず、最小限にとどめた。
「陛下、起きてください。……どうしたら起きてくれますか? お茶、冷めちゃいますよ」
すると、ぴくりと陛下の眉が動いた。ユノはそれを見逃さず、再びとんとんと肩を叩く。
「陛下、起きる時間ですよ。朝ですよ」
「いい加減に起きませんと、ユノさんに寝起きの悪いだらしのない方だと思われてしまいますよ」
バシュレの一言でぱちりと陛下の目が開いた。バシュレはユノが何度も試みたことをすんなりと成し遂げてしまった。
「それは喜ばしくないな」
起き上がった陛下と困り顔のユノが目を合わせる。優しく微笑まれ、ユノはさらに困ってしまった。
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いちゃいちゃしだします