自宅の訓練場で素振りをしていたアステルは額にかいた汗を服の袖で拭い、剣を腰に着けた革製の帯刀ベルトに収めた。大人と同じ剣は九歳のアステルにとっては長剣と呼べる大きさだったが、四年続けてきた鍛錬のおかげか、兄たち同様難なく使いこなしている。
 ふにふにだったアステルの手はすっかりタコやマメができ硬くなっていた。父や兄たちと同じ騎士の手になっていくのが嬉しい反面、かわいい手からは遠ざかっていくことに少しの不安を覚えていた。アステルがイリオスにとっての「かわいいお星さま」であり続けることは何よりも大事なことだからだ。
「アステル、そろそろ教会に行く準備をしよう」
「はい、シルト兄様」
 長兄のシルトに促されアステルは訓練場を後にした。自室で砂埃を落とすため軽く風呂に入り、外出用の服に着替える。
 午後から待ちに待った教会でのバース判定を行う予定だ。シルトが両親の代わりに付き添ってくれることになっている。
 六年前のバース判定で正式な後継者となったシルトは高等学校入学を機に侯爵の名代として振る舞うよう求められる機会が増えていた。本来であれば子のバース判定は親が付いてくるものだが、三ヶ月前に行われた王太子のバース判定の結果を受けて、アステル自身が両親の参加を遠慮した。両親はかわいい末っ子の特別な日に立ち会いたいと懇願したが、結果が分かっていることに時間をさく必要は無いとアステルが押し切った。
 王太子であるイリオスのバースが分かったのだ。アステルからすれば己のバースが分かったも当然だった。それなのに日々忙しく働く両親の時間を取らせるのはもったいなく感じる。保護者同伴でなくて良いのならシルトの同席も遠慮するところだった。
 準備を終えたアステルはシルトと待ち合わせをしている玄関へと向かった。玄関には護衛騎士が二人いるだけでシルトはまだ来ていない。ほんの数分待つと三人分の足音が聞こえ、アステルは兄とその侍従と護衛の二人を視界にとらえた。
「待たせたね」
「今来たところです」
「そうか、良かった。それじゃあ行こうか」
 玄関のポーチに二台の馬車並んでおり、アステルとシルト、そしてその側近が一台に乗り、他の二人が後方のもう一台に乗った。
「いくら確信があるとはいえ、父上も母上も悲しんでいたぞ。それにきちんと判定を受けないと分からないじゃないか」
「シルト兄様はイリオス殿下のことを疑うんですか? 僕は殿下を信じてますし、それに父様たちの仕事の邪魔したくないです」
「疑うつもりは無いが……にわかに信じ難くてな……。運命の番というのはおとぎ話の世界の話だと思っていたんだ。いずれにしても、帰ってからのパーティーはちゃんと参加するんだぞ?」
「僕だってパーティー楽しみにしているんですよ」
 家族のことが好きなアステルは祝ってもらえることは嬉しかった。当然、家族だけのパーティーなのでイリオスはいないが、来週会う約束をしているのでそこで祝ってもらうつもりだった。アステルがイリオスを祝ったことと同じように。
「ああ、教会が見えてきたな。心の準備はいいか?」
「もちろんです。だって僕は兄様たちと同じアルファですから」


 そこから二ヶ月がたったある日、アステルは父フォルティスに呼び出された。フォルティスの執務室に向かいノックの後入室する。
「失礼します、アステルです」
「ああ、よく来たね、アステル。そしておめでとう。イリオス殿下の婚約者最終選考の三人に選ばれたよ」
 フォルティスの突然の発言にアステルは理解が追いつかなかった。アステルは一呼吸おき、唾を飲み込んだ。
「……なんですか、それ。三人? 僕以外に二人も候補が居るんですか……?」
「そういうことだね。いやーアステルがバース判定をした翌週に候補者が締め切られてね。ギリギリだったんだよ? 間に合った父様をほめてくれてもいいんだよ?」
 顔にも書いてある言葉に、なぜもっと早く教えてくれなかったのかと不満を覚えたが、アステルは落ち着いた声音で感謝を述べた。
「さすが父様です。ありがとうございます」
「うん! それで、そういう訳だから最後の顔合わせのために明後日、お城へお出かけになったから準備するように。父様も一緒だからお揃いの服にしようか」
 アステルは働かない頭で返事をして何とか父と別れ、自室に戻ってきた。ただぼうっと過ごし、翌日の座学や剣術の訓練も身が入らずただこなしただけになってしまった。それでも難なくこなしているように見えるのだからアルファの基礎能力の高さが窺える。
 兄二人と母は心ここに在らずのアステルを心配してくれたが、フォルティスはアステルと二人での登城に浮かれていた。
 そんなフォルティスは顔合わせ当日もアステルと揃いの衣装に満足そうにアステルと一緒に馬車に乗りこんだ。
「本当にアステルは母様に似て美人でかわいいねぇ」
「ありがとうございます」
 兄たちは父に似た男性的な顔立ちをしていたが、アステルは女性オメガである母に似ていた。おかげで家族からはかわいいかわいいとことある事に言われて育った。イリオスからもかわいいと褒められるので、アステルはこの顔に産んでくれたことを感謝している。イリオスからかわいいと言われるとつい笑がこぼれてしまう。早くイリオスに会いたいと思う反面、選ばれなかったらという不安がアステルを襲う。
 イリオスが好きだと言ってくれた笑みをアステルは浮かべることができなかった。
「父様は陛下と話があるからアステルとは悲しいけれどお別れだ。ひとりで殿下に会いに行くことになるが大丈夫? 寂しくない? 私は寂しい……」
「はい。お城には僕一人で何度も来たことがありますし、騎士たちもいるので大丈夫ですよ」
 城に着いた二人が馬車から降りると名残惜しがるフォルティスとは反対にアステルはスタスタと迎えに来た騎士と共にイリオスが居る部屋へと向かった。
 こんな苦しい気持ちでイリオスに会うのは初めてだった。バース判定の後に会った際はやはりと言いつつもとても喜んでくれた。つい先週に会った時も変わらずアステルはイリオスからの愛を感じたが、今回の件については何も教えてはくれなかった。
 アステルが悲しむから教えてくれなかったのだろうか。それでも大事なことだ、イリオスの口から事前に教えて欲しかった。アステルは熱く潤みだす瞳に力を入れながらイリオスが居る部屋の扉が開くのを待った。
「私のかわいいお星さま。よく来たね、待っていた」
 イリオスを視界に入れた瞬間、アステルの努力が無駄になった。決壊した涙腺はとめどなく涙を流し、驚いたイリオスが駆けつけるほどだ。
「どうしたアステル? 何かあったのか?」
 イリオスが両手でアステルの頬をそっと挟み目が合うように顔を上にあげさせる。アステルは涙で歪んだ視界の中イリオスの瞳を見つけ睨みつけた。
「……っ! どうしたも! なにも! ありません! 僕、知らなかったんですよ!? 婚約者候補のこと……一昨日知って……!」
 アステルが不満をイリオスにぶつけると指の腹で涙を拭われ、その反射で瞑った瞼に唇を落とされる。その瞬間、アステルの悲しみが別の感情に上書きされた。ギュッとイリオスの服をつかみ半歩体を寄せる。
「ぼく、イリオスさまと、ずっと、一緒に、いたいです……!」
 震える声でアステルは何とか言葉を伝えた。溢れる涙はすぐには止められず、勢いを落として頬を滑る。
「私も同じ気持ちだ、アステル」
「で、でも候補者は三人いるって……!」
 つまりはイリオスが他の誰かと結婚する可能性があるということだ。アステルにはそれが耐えられなかった。
「ああ、その事か。他の候補者の名前は聞いたか?」
 アステルは首振り否と答える。すると柔らかいアステルの髪をイリオスが撫で、ふわっと凛々しい顔が安心させるような笑みを浮かべた。
「だから不安になったんだな。すまない。もっと早くに伝えておけばよかったな」
「本当ですよ!」
 アステルは不満をのせてぽすんと軽くイリオスの胸を拳で叩いた。イリオスはそんなアステルに怒る素振りは見せず申し訳なさそうに眉を下げる。
「規則上、三人選ばなければならなかったんだ。他の二人は私が選ばないことを了承した上で選出している。まぁ言ったら出来レースだな。だから私の婚約者はアステル一人だ。言いつけ通り早くにバース判定をしてくれて良かった。王太子の婚約者選抜は時期が決まっているからな、危うく婚約破棄をしなければならない所だった」
「……僕と結婚するためにですか?」
「それ以外になんの理由が?」
 アステルはイリオスを抱きしめてぐりぐりと先程叩いた胸板に頭を押し付けた。甘く大好きな匂いがアステルを包み込み安心させる。
「……ぼく、僕、この話を聞いてからずっと不安で……」
「何度もキスをした仲なのに?」
「だって秘密のキスだから……」
 隠さなければならないのはこの関係を良しとしない誰かがいるからではと歳を重ねて考える日がいく夜かあった。そんな不安はイリオスに会って抱きしめれば受け止めて、好きだと、体で言葉で返してくれた事でアステルは解消してきた。
 『秘密のキス』、九歳のアステルにとって甘くて少し苦い言葉だった。
「そうだな。でもこれからは秘密にせず隠れてしなくていいんだ。それに婚約者なのだから唇にしてもいいだろう?」
 唇は夫婦がするキスだからとアステルが言った言葉をイリオスはずっと守ってくれていた。アステルも本当は唇のキスをしたかったが、ギリギリでも我慢してくれるイリオスの姿を見て、発言した張本人から取りやめるなんてと我慢していた。
「あ……はい……して欲しい、です……。で、でも顔合わせなら他のお二人がくるのでは? 初めては二人っきりがいいです……」
 当然、顔合わせに呼ばれたのはアステルだけではない。この後誰かが来るのであれば、キスをした後、イリオスを解放する自信がアステルにはなかった。
「こんな時に他の男の話か……君よりも先に来てもう帰ったよ。だから心置き無くキスをしよう」
 イリオスが軽く触れるだけのキスをするとアステルは思わず驚いてビクッと体が跳ねた。クスッと笑う音が聞こえて、緊張で力の入ったアステルの唇に何度も柔らかいそれが押し付けられる。ペロッと熱いものが触れたが、キツく閉じられたアステルの目ではそれが何か判断できなかった。

 幾分かアステルの体から力が抜けてきた頃、イリオスは啄むキスをやめてようやく部屋の中へと誘い、着席を促した。当然アステルが座るのはイリオスの足の間だ。アステルはこの後ろから抱きしめられの体勢が好きだった。もちろん向かい合う体勢も好きだったが。
 イリオスが机に並べられた紙を取り、それをアステルに見せる。そこには婚約に関することが書かれていた。署名を書く場所があり、既にイリオスの名前が彼の筆跡で書かれている。意図を尋ねようとアステルは振り返った。
「本物は来月の婚約式で改めて書くことになるが、先にアステルを予約させてくれ。……私と結婚して欲しい、アステル。君を私にくれないか?」
 嬉しくて思わず声が零れそうになる。じわっと先程とは異なる涙が薄くアステルの瞳を覆った。
「っ! もちろんです。僕は会った時からずっとイリオスさまのものです……!」
 アステルは体を捻ってイリオスに抱きつき、頬、鼻、唇の順にキスをした。するとお返しとばかりに力強く抱きしめられ数え切れないキスがアステルを襲った。


 翌月、晴天の中王太子の婚約式が執り行われた。真っ白できらびやかな衣装を纏う二人はまるで初めから一つだったかのように見えた。


end

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ピクシブにアップしていたのに更新できていなかった……。
もうちょっと続きます。


01/14/25