目覚めると、そこには何足もの靴が種類雑多に並べられていた。それこそ、何千何百と見渡す限り、果てがないように思えた。私の四方八方を囲み、足の踏み場がない。
 ここはどこだ? なぜこんな所に居るんだ?
 そもそも、私は仕事に追われていて、こんな所に居る暇も寝ている暇すらもないのだ。出口はどこだ。壁はどこにある。靴以外は真っ白で、目が疲れてしまいそうだ。早くここから出たい。
 体を起こし、立ち上がった。靴は履いていない。足には見慣れたグレーの靴下が見えた。
 ここにいても仕方がないので、真っ直ぐ足を進めた。歩けばどこかに突き当たるかもしれない。
 ひたすら歩いても、見える景色に変化はなかった。
 本当に果てがないのではないだろうか。不安と焦りが交錯する。
 焦ったところで何が変わるでもない。頭のどこかで冷静な私が居たが、それになることができない。
「くそっ」
 加藤は資料をまとめ直しただろうか。田辺は顧客を煩わせない様、きちんとフォローをしただろうか。間に合うか分からないなんて言った日には、今まで培ってきた我が社の信用がなくなってしまう。仕事においても人生においても、若干の嘘は必要だ。
 一人の失敗が全体に響く。入社三年目にしてファイルの送り違いをした奴がでた。もう一頑張りと言う所まで来たプロジェクトが振り出し、とまでは行かないがかなり前半まで戻ってしまった。送った奴も悪いが、先輩なのに確認しなかった私も悪い。責任の取り合いなどしてある暇もなく、似たような作業をやり直すしかなかった。
 幸い、コピーできる範囲が幾つかあったので、期限にはギリギリ間に合いそうだった。勿論、残った数日を徹夜でやり込めば、だ。 今現在、考えなければならないことは一つ。どうやってでも、ここから抜け出すことだ。
 せめて壁があれば良いのだが。見たところ……悲しいが、無さそうだ。
 立ち止まり、膝に手をついた。
 少し、息が切れる。営業と違いデスクワークばかりしていた所為で、万年運動不足だ。学生時代も大した運動はやってこなかった。そこから更に体力が落ちたんだ、普段の生活をしていたならまだしも、しばらくまともな睡眠をとっていない私にはかなり厳しい状況だ。
 ふと、きちんと見ていなかった靴に目を向けた。と言うよりも、下を向いているんだ。自然と目についてしまう。
 薄汚れて、どこか見覚えがあった。
 子供用の、青を基調としたマジックテープで留めるタイプの物だ。
 その隣には、水色に灰色を混ぜたような色のサンダルがあった。これも子供サイズだ。
 じっとそれらを眺めた。それから、まわりにあった靴をよく見渡した。やはりどれも見たことがあるように思えた。
 子供用のサンダルを手に取り、凝視する。
 突然、脳に映像が流れ込んできた。驚き、思わずサンダルを放り投げた。
「な、んだ……これは」
 酷く懐かしい風景だった。小学校を卒業するまで住んでいた、のどかな町だった。
 もう一度、放り投げたサンダルを手に取った。
 またきた。

 夕方、一緒に住んでいた従兄が返ってきた。いつもは優しく、友達の少なかった僕と遊んでくれた。
 でも、知ってるんだ。遊び相手のいない僕を不憫に思った伯母さんがお兄ちゃんに遊んでやんなさいと言っていたのを。見てしまったから。ショックだったけど、僕はお兄ちゃんを放すことができなかった。一人でいるには大きすぎる家。お祖母ちゃんは風邪が長引いて寝込んでるし、大人はみんな働いていた。
 さみしくて、それをお母さんに言えなくて。だから、お兄ちゃんに縋ってた。
「おかえりー」
 読んでいた本を閉じ、扉の向こうに見えたお兄ちゃんに笑いかけた。
 なのに、僕の前を通り過ぎてさっさと自分の部屋に入ってしまった。いつもなら、ただいまでも、おうでも言ってくれるのに。
 閉じた本を机に置き、僕はお兄ちゃんの部屋に向かった。扉の前で、少し躊躇した。僕に、事実を知っている僕に嫌気がさしてしまったのかもしれない。
 勇気を出して、ドアをノックした。コンコンと軽い音を鳴らし、返事を待った。
 声がしない。
 再度ノックをして、返事を待たずにドアを開けた。
「入る、よ」
 扉の間から顔を出し、中を覗いた。ベッドが不自然に山を作っていた。掛け布団を被っている所為で顔が見れない。
「……何か、あったの?」
 お兄ちゃんがもぞもぞと布団から顔を出した。こっちを見るわけでもなく、枕に顔を押しつけている。
「何でもない。……ちょっと一人にさせて。あと、ただいま」
 枕に音が吸収され、籠もって聞き辛かったけど、なんとか聞き取れた。
 僕が居るのはイヤなんだ。……僕は、僕はそれがイヤだ。
 一人はイヤだ。
「……お兄ちゃんに、良いもの見せてあげる」
 さっきの言葉は無視して、僕はお兄ちゃんのベッドに近付いた。そして、被っていた布団を、抵抗されたけど、無理矢理捲った。
 そこには、涙こそ流していないものの、目を真っ赤にさせたお兄ちゃんが居た。
 なんだか、ひどく小さく見えた。僕が縋っていたものはこんなにも小さかったのか。それも仕方がない。お兄ちゃんはまだ中学生なんだから。
 お兄ちゃんを力尽くでベッドから引きずり下ろし、玄関まで引っ張った。靴を履かせ、手を繋いでぐんぐん足を進めていった。
 まだ大丈夫だ。ギリギリ間に合いそうだ。
 チラッと後ろを見るとお兄ちゃんは諦めたようにトボトボと足を動かしていた。
 振り払おうと思えば簡単に外れる手に力無く左手を預けている。僕に甘いからだ。何だかんだで、相手をしてくれるお兄ちゃんは優しいのだ。
 そんな事を考えていると、目的地はもう、すぐそこだった。
 家の裏にある小高い山の頂上。家から早足で十五分とかからない。
 丁度、日が沈もうとしていた。僕は間に合ったとホッとした。
「ね、キレイでしょ?」
「は?」
 嘲るような失笑だった。勿論、ただ夕陽を見てもらいたかったわけじゃない。
「虹みたいだと思わない? 赤、オレンジ、黄色。だんだん青くなってる」
 眩しいけれど、夕陽と空の色をなぞっていく。赤が小さくなって、濃紺が包み込もうとしている。
 空は、色んな顔を見せて、僕らを楽しませてるんだと思っていた。
「朝も、きっときれいだよ。水色と赤、それから白も」
 しばらく、お兄ちゃんは黙ったまま夕陽を見ていた。欠片と残らず、沈みきったとき、お兄ちゃんが僕を見た。
「……帰るか。婆ちゃんにメシあげなきゃ。お前も腹減ってるだろ?」
 頷いて、来た時と同様手をつないだ。今度はお兄ちゃんが引く番だ。

 そこで、サンダルを手放した。
 あの頃は奇抜な考え方だとおかしな子だと思われていた。片親しか居なかったことも影響してだろうか、友達が酷く少なかった。
 だから、母さんの再婚と転校を機に変わったのだ。どこにでもありふれた少年に。
 このサンダルはあの時、私が履いていたものだ。あのマジックテープの靴もそうだ。あそこの赤いヒールは母さんが履いていた。あれは兄さんの。友達のもある。
 これは、私が関わってきた人の靴なんだろう。
 一つずつ触ると、記憶が映像として脳内で再生される。
 私が会社に来たときに履いていた靴はどこだ?
 そこに鍵がある気がした。もしかしたら繋がっているのではないか、と。
 ただ、これだけの量だ。見つけるにはかなりの時間を要しそうだ。
 だが、革靴だけを探すのはそれ程難しくはなかった。黒に近いそれは、この白い部屋では目につきやすい。
 ふと、気付いたことがあった。どうやらこの靴たちは、年毎に並べられているようだ。
 今……となれば反対だ。
 学生時代をスイスイと通り過ぎ、社会人になった辺りまで歩みを止めなかった。
 足を進めていると奇妙に空いたスペースが床に出来ていた。
 私が寝ていた場所だろう。どうやら始めからゴールで寝てしまっていたようだ。無駄に動いて損をした。
「これで帰れるのか……」
 確かではないが、そう思わずにはいられなかった。心身共に疲弊しきっていた。
 寝ていた直ぐ近くに、私の靴を発見した。手に持って眺めるが、何も起こらない。
 投げ捨てたくなる気持ちを抑え、靴を履いた。
 どうやらこれが正解だったらしい。
 ハッと意識が浮上した。
 目の前にはパソコン。辺りを見れば、ファイルや何やらが無造作に置かれている。
 時刻は最後に見たときから十分と経っていない。
「おまっ……寝てただろ」
 目の前にデスクがある斎藤が恨めしそうに睨んできた。
「ごめんって。でも、そんな落ちてなかっただろ?」
 許せと申し訳なさそうに笑った。
 それにしても、ずいぶんと混同した夢だった。あれは確かに自分の記憶だが、どうにも課長っぽい。俺はただ下で言われた通りに働く平社員だ。
 憧れ、なのかもしれないな。
 俺は、他人を気にするあまり、貴重なものを手放してしまった。
 今更、捨てた感覚を……課長の持っているそれを羨むなんて馬鹿だな。一度捨てたものは、戻って来てはくれないのに。
 思考をやめ、画面に集中した。まだまだゆっくりと寝れそうにない。


end

***
そう言えば上げてなかったなと思ったので。
去年のサークル誌に載せた作品です。
たしかえすとえむさんのサイトのトップに靴がだああって置いてあってそこに人が立ってるみたいな絵がありまして、それをイメージして書いた気が……台詞のない漫画だっけ??
うーんちょっと記憶があやふやだ……。
最後の二人がほもです。


06/06/10